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● 真民さんのメッセージ
「これからも生きてゆくだろう 流転し 輪廻し 限りない 生死の海を」
光と風の輪廻する海
光と風のなかを 生まれたばかりの 蝶が飛んでゆく
わたしも 光と風のなかを 生きてきた これからも生きてゆくだろう 流転し 輪廻し 限りない 生死の海を
The
Endless [Eternal] Cycle of Birth and Death on the Wind in the
Daylight
A butterfly, which has just come into existence, is
flying on the wind in the bright light of day.
I have also lived so
far in the same manner as the butterfly, on the wind in the bright light
of day.
From now on as well I will live in the same manner again as
before. All the things including the butterfly and myself are set in
perpetual motion and flow, without being freed from the endless cycle of
birth and death,----yes, endless like the sea. (English translation:
Sakai, Takahiko) (English consultation: Frances
Ford)
(補足)
・「流転」constant
mutation「絶えざる変化,盛衰」impermanency「永続 しないこと、無常」vicissitudes「状態・物事の変遷、栄枯盛衰」という難 しい言い方もある。ギリシャの哲人ターレス:「万物は流転する =Impermanency
is the nature of things.」
・「輪廻」the endless cycle of birth and
deathについて 初めは、the limitless round of birth and
deathとした。フォード先生が、 これをご覧になってしばしの考祭をされ、そして、言われるには、round は、丸い形を思い起こさせる。cycleとすれば、movementになりますよ、 と。なるほど! transmigration,
metempsychosisという難しい言い方もある。
・「海」⇒「限りのない、無限につづく流転・輪廻は、限りのない無限にひ ろがっている大海原のようなものだ」と、とらえてみた。「限りのない生死」 という時間的な回転の連続が、「限りのない」という言葉から連想される空
間的な無限の広がりに高まっていったように、感じられたからである。
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● 相田みつをさんのメッセージ
自分の番:
うまれかわり 死にかわり永遠の 過去のいのちを 受けついで いま自分の番を 生きている それがあなたの いのちです それがわたしの いのちです
Your
Turn:
Birth and death are repeated in succession in an everlasting
incarnation from the past, now is your turn to live in this world. This is
what your life is all about; this is also what my life is all
about.
(English translation: Sakai, Takahiko)
(English
consultation: Frances Ford)
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● 英語母語者の潜在意識と冠詞の使い分け方の感覚(その10)
ジェイ・ルービン教授:日本語における「ハ」と「ガ」についての考察 出所: Jay
Rubin: Making Sense of Japanese ― What the Textbooks Don’t Tell You 日本語の秘訣
―「日本語は決して“曖昧”ではない (東京−ニューヨーク−ロンドン:講談社インターナショナル、1998)
※ 日本語母語話者が「ハ」と「ガ」をほぼ無意識に使い分ける ときの感覚について、日本近代文学をご専門とされておられる ルービン教授がその解明を試みられておられているように 感じられる文章です。
Wa
and Ga
The Answers to Unmasked
Questions (ジェイ・ルービン教授) こんな答がみつかってくると、「ハ」と「ガ」に関する 疑問点についてその仮面がはがれてきます。
(11)
Wa is a problem for English speakers because it is doing two things at once.
It differentiates the subject under discussion-or, rather, the
"topic" (more later)-from other possible topics, and then it throws the
emphasis onto what the sentence has to say about the topic. Let's deal with
the first function
first. 「ハ」は英語母語話者にとっては難物ですね。 「ハ」は、一度に二つの働きをするからです。 「ハ」によって、中心的な話題つまり主題
― ひとつの文中 で、その文が何について情報を伝えるのかを示す部分 ―
が 識別されて、しかもこれが強調されることになります。 まず、「ハ」の第一の役目である主題の提示 ということについて述べてみましょう。
(12-1)
Early on, we are usually given "as for" as the closest English equivalent to
wa, which it indeed is, but after encountering wa several thousand
times and mechanically equating it with "as for," we forget the special
effect that "as for" has in English, and it simply becomes a crutch for
translating Japanese into a quaintly Oriental version of English before
turning it into real English. (この書物の)始めのほうで、「ハ」は、"as for"
の意味に きわめて近いとしました。事実、そうなのですが、 「ハ」に何度も何度も出逢ってそれを機械的に "as for"
と等価であるとしてきましたので、 いまになって考えてみますと、"as for"
については その英語での格別の効能をないがしろに してしまっています。だから、"as for" は (一時的でしばしば不適切な)
埋め合わせの道具 と化してしまって、もとの日本語が 珍妙なオリエンタル版英語に翻訳されること となってしまい、現実的な英語になりきっていない、 ということになってしまっています。
(12-2)
Watashi wa iki-mashita 「私は行きました」 = "As for me, I went" = "I
went." =「ことわたしについていいますと、わたしは行きました」 =「わたしは行きました」 The last equation in
this sequence is wrong. 最後にある等号は事実にそぐわないですね。
(13) Sure, we have the
expression "as for" in English, but sane people use it much more sparingly
than do students of Japanese. Take Patrick Henry, for example: "I know not
what course others may take, but as for me, give me liberty or give me
death!" Now, there's a man who knew his as-fors! たしかに英語には、"as for"
という表現がありますが、 良識派の人は、この表現は、日本語を学ぶ学生に比べれば、 ごくごく控えめに使うのですね。パトリック・ヘンリーの例です。 「他人の行動指針はどうであれ、こと私について言えば、 われに自由を与えよ、しからずんば、死を与えよ。」 なるほど、おのれの
“as for” をわきまえていた こうした人がいたんですねえ。
(14-1) The next time you are tempted
to say Watashi wa ikimashita, stop and think about whether you really want to
proclaim to the world, "I know not what course others may have taken, but
as for me, I went!" こんど、「わたしは行きました」と言いそうになったら、 ちょっと待て。そこでちっと考えて見る
― 自分はほんとうに世間様に宣言したいのかと 「他の人はどうであれ、ことわたくしに関しては、 行ったのだ」というように。
(14-2)
Your wa differentiates you as a topic of discussion from other possible
topics ("I don't know about those other guys, but as far as I am concerned .
. .") and then, after building up this rhetorical head of steam, it blows
it all into the rest of the sentence ("Yes, I did it, I
went!"). 自分のことに「ハ」を使うと、自分というものが主題となる (「ほかのひとのことはいざ知らず、自分に関して言えば、 自分は------」)。だから、こういう大袈裟な頭だしで 湯煙をあげて驀進してゆくと、汽笛をならしながらの その先の文全体への突入と相成りますね (「そうなのです、そうしたのです、私は、行ったのです」 という感じになりますよ)。
(14-3)
Notice that wa builds suspense, arousing curiosity in the reader or listener
about what is to come. If the speaker were to pause at the wa, the listener's
brain would whisper subliminally, "Yes, yes, and then what?" After having
differentiated the named topic from implied other potential topics, wa dumps
its emphatic load on what comes after it. This makes it very different
from ga, which emphasizes what comes before
it. 注目してくださいよ、「ハ」を使うと、ひとの気をもませることに なるんですね。詮索好きの気分を惹起させるから、 読み手や聞き手はつぎに何が登場するのやらと 思うでしょうね。話し手が「ハ」のあとでちょっと間を置くと、 ささやくがごとく聞き手側の潜在意識が頭をもたげてくる でしょうね。「うん、それで、それで、どうしたって」。 中心的な話題=主題が名をあげて識別されてしまうと これは、「ハ」によって、「ハ」の働きである強調という 負荷をその下流の文章に投げ出すんですね。 この点が、「ガ」の働きと大いに異なるところですね ―
「ガ」のほうは、強調するものが「ガ」の上流に あるんですよね。
(15-1) Have you ever stopped to think
about why you were taught never to use wa after interrogative words such
as dare, nani, and dore? Because ga puts the emphasis on what immediately
precedes it, and when you use those interrogative (question-asking)
words, they are precisely what you want to know: "Who went?" "What came
out of the cave?" "Which one will kill it most
effectively?" ちょっと一休みしたりして、 さあこんなことを考えたことがありますか。 なぜ教えてくれたのだろうなあ、こんなことを ―
つまり、「ハ」の上流側に疑問詞の「だれ」、「何」、「どれ」 などは使ってはいけない、ということを。 なぜって、「ガ」は自分のすぐ上流側にあるものを 強調するからですね。だから、こうした疑問詞 (質問をするときの詞)は、まさに知りたい内容そのものに なるんですね: 「だれが行きましたか」 「誰が出てきたのですか、その洞窟からは」 「どの人がそれを一番効果のあるやりかたで殺すことになりますか」
(15-2)
And just as ga points at exactly what you want to know in the question, ga
will always be used in the answer to emphasize the information that is being
asked
for: 「ガ」が指示しているものはまさに疑問をいだいている中での 知りたいことそのものなんですが、 同時に、「ガ」が返答の中で使われるのは、 いま求められている情報を強調するためなんですね。
(15-3)
Dare ga ikimashita ka 「だれが行きましたか」/ "Who went?" Watashi ga ikimashita
「わたしが行きました」/ "I went" or Yamamoto-san ga ikimashita 「山本さんが行きました」/ "Miss
Yamamoto went."
(15-4) This is why you don't want to say Watashi
ga ikimashita for a simple "I went," because what you are really saying is
"I went," to which the proper response is "OK, OK, calm
down." こういうわけですから、「わたしが行きました」を 単なる「行きました」のかわりに使ってはいけないのです。 なぜなら、実際に何を言っているのかと いうとそれは
"I
went「わたしが行きました」" となっていますから、これに対しての相手の格好な反応は 「まあ、いいから、いいから、落ち着けや」 となってしまいます。
(拙い和訳は さかいたかひこ によるものです)
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● 行方昭夫先生(東京大学名誉教授)『響き合う心』(音羽書房鶴見書店、2004)
から、先生のご許可をいただきまして、「一昔前の東大英語入試採点秘話」を
ご紹介させていただきたくお願いいたします。行方先生が助手をつとめて
おられました頃のお話です。
-------------------------------------------------------- コンピューターにこれが可能か―――島田謹二先生
コンピューターの記憶装置、計算能力が驚異的であるのは承知しているが、人間の記憶の不思議 も仲々すてたものではない。先日昔の同僚と雑談していた析、比較文学、文化を専門とする者がい たので、今は亡き島田謹二先生の思い出話が出た。私白身は、先生の比較文学士の輝かしい業績に 心からの敬意を払い、その一部は愛読もしているけれど、また一学期だけその「比較文学」の講義 に出、熱っぽい語り□に魅せられたけれど、どこかついていけない気がして、大学院は比較でなく 英文を選んだ者である。同席の友人たちから、島田先生の女性崇拝にからむ面白いエピソードをい くつも聞いて楽しむうちに、先生のある姿がふと頭に浮び上がってきた。私が三十歳前で助手になり たての頃のことだ。脳のどこかにずっとひそんでいたものが、突然浮上したのであった。
それは入試の英語の採点に関することだから、秘密事項だが、もう時効になっていよう。採点の 始まった初日のことだ。自分の担当箇所を決めるくじ引きは前日してあり、五、六名ずつ一部屋に 集まって各自百枚ずつにたばねた答案を取って来て採点を始めるのだ。助手の私は、穴埋め問題担 当である代りに、ものすごい枚数を割当てられていたので、すぐスタートしていた。部屋には上田 勤、朱牟田夏雄という私の直接の恩師の他、普段はあまり英語教室に顔を見せない島田先生と、他 に何人かいた。採点前に大体の基準を決めるために答案をさっと見ていた上田先生が、「どうした のかな。習うより慣れろって書いているのがあるね。makesの目的語が数語飛ばした後の performanceだというのが肝心なのに、そこは分かつていないんだな」と突然発言した。先生は棒線解 釈が担当だった。
問題の箇所は、Practice
of course makes perfect and puts a polish on the somewhat awkward first
performance.
となっている。 ジュリアン・ハックスレーの『鳥の知恵』という著書から取った文章で、 小鳥は飛び方を親に教わらずとも、自然に覚えるものだという内容である。
私は前日にこの問題を見て知っていた。そして上田先生が問題にしていた点について既に考えて いた。そして冒頭が「もちろん」という副詞が入っているのを除けば、諺であり、そのことを知っ ているかどうかが、正解につながると思っていた。従って、尊敬する上田先生の発言であっても、 反論せずにはいられなかった。「先生、それ諺じゃありませんか?」と私は質問の形で言った。先 生はすぐには答えなかったが、その代りというように、いつもは黙っている島田先生が、「うん、 どうかな」と言い、それから確かめるように、「プラクティス・メイクス・パーフェクト、プラク ティス・メイクス・パーフェクト」とゆっくり二回発音し、「頭韻を踏んでいる。間違いない。こ れは諺ですな」と言う。一瞬の沈黙があってから朱牟田先生か上田先生の顔をつぶさぬように、し かし事実は事実だからというように、「まあ諺といっても、それほど知られているものじゃないん じゃないかな」と言い、それから上田先生のほうを向いて、「makesの目的語としてperformance がimplyされてるとは思うけれど、この場合、それを訳出してなくとも正解にしたらどうだろう」 と言った。島田先生は、また「プラクティス・メイクス・パーフェクト。間違いない、この音調だ と確立した諺ですな」と、だめ押しをするように嬉しそうに言った。上田先生は、島田先生のほう でなく、朱牟田先生のほうを向いて、「分かった。そうしよう」とあっさり言った。
私は三人の先生方の間に何か気まずい雰囲気が流れたのかどうかも分からず、自分の発言のおか けで、正解した受験生がちゃんと評価してもらえるようになってよかった、とのみ考えて、少し得 意だった。こうして静かに採点が始まり、紙をめくる音のみ続いた。しばらくしてお茶を飲みに部 屋を出た私は廊下で島田先生とすれ違った。すると先生は、にこにこ顔で、「行方君だったな、い いことを指摘したね」と言う。比較研究室では多弁と聞いていた高田先生は英語研究室では口を開 かれず、助手の名すらはっきり認識していないし、私と□をきくのも初めてだった。私は驚いた が、あまり気にとめなかった。
このエピソードを聞いた友人たちは、そんなこともあったのかと、感心し面白がった。私は何か を思い出すと、その場の情景が鮮明な映像になって頭に浮かぶたちなので、ずっと以前にあの世に 去られた三人の先生方それぞれの表情が見え、なつかしかしかった。なつかしいだけでなく、大学院を 終えて助手になったばかりの私には分からなかった先生方人間関係が、あるいは、島田先生のに こにこ顔の理由が、四十年後の今になって分かったのである。こういうことだ。
私が学部学生として出席した「比較文学」の授業で島田先生は、「日本の英文学研究はおかしい。 あれは「英」文学であって、英「文学」ではありませんな。私の比較文学科では文学をやります」 とよく言っていた。一方、私が勤務していた英語教室は、語学と文学と両方に重点が置かれてい た。上田、朱牟田両先生も、もちろんすぐれた文学研究者だが、日本で一、二を争う英語の達人で あり、英語教師という面も強かった。そしてこの二人が中心となっている英語教室では、島田先生 は肩身が狭かったのだ。当時比較文字数字は誕生しつつあったけれど、大学の規則上は、島田先生 も英語教室の一員であり、だから、入試も他の方と同じように加わっていたのである。肩身が狭い 思いをしていたのは、自信満々の島田先生には不満だったに違いない。おとなしく採点を始めよう としていた矢先、助手の思わぬ発言で、英語屋に一矢報いる機会が到来したのだ。これを逃す手は ないというので、上のような形で珍しく発言したのである。もう一つのコンテクストとして、島田 先生は文学の本質は散文より韻文にあるのだと考え、白身も詩を得意にしていた。一方、上田、 朱牟田両先生は小説が専門だということがある。詩の分かる人間だから、諺かどうかもすぐ分かる、 というのを示したかったのであろう。当時の私にも、きっと諺だと分かっていた朱牟田先生が親友 の上田先生の顔をつぶさぬように注意深い言い方をしているのは分かった。しかし、島田先生のに こにこ顔が、助手のおかげであの二人をやっつけて、してやったりの笑顔だったというのは、今に なってようやく分かった。
人にはいろいろな顔がある。そのことを明確に意識したのは、私の場合、高三の受験勉強でラフ カディオ・ハーンのある文章に触れた時だ。ハーンが目本にきてから雇っていた下男の話である。 明朗そのもので、この人、なんの悩みもないのかな、と日頃思っていたくらいだったという。とこ ろがある日、外出先から帰って家に入ると、こちらからはよく見えるが、向うからはこちらを見え ない位置に、下男の横顔が見えた。「ただ今!」と声を掛けようとしたが、思わず息をのんだ。下 男の表情が、いつもとはまったく違い、暗い。深いしわまで見えるではないか。それはほんの一瞬 のことで、下男は人の気配にすぐ気付き、「お帰りなさいませ」と言いつつ、いつもと少しも変ら ぬ明るい顔に戻っていた、という。人の心に敏感なハーンは、この時、人にはさまざまな顔があ る、ということを改めて感知したようだ。このエッセイの一部を読んだ時、私は受験勉強を忘れ て、人間についての真実に触れた気がした。
一般論になるが、今の伝記作者というものは、対象となる主人公の真実の姿を描くべく、いろい ろな顔を探ろうとする。(少し前に出て評判になったアイザックソンの『キッシンジャー』は新しい 伝記の成功例である。)そうでもしなければ、昔の退屈な面白くもない偉人伝のように、公式の 一つの顔しか描けない。しかし、隠れた面を探すのは仲々むずかしい。主人公が故人の場合、主人 公を直接知っていた人たちに取材するのだが、どうしても親しく知っていた人たちだけに限られて しまうのではなかろうか。もし島田護二伝が古かれるとすると、伝記作者は私の先口の友人たちの ところに取材にくるけれど、先生と関係のなかった私のところには来ない。
グループで旅行をし、景色のよい所で、仲間だけ並べて「はいチーズ」と言って写真を取る。と ころが、そういう写真に仲間でない人が写ってしまうことがある。そういう気付かずに写された写 真が面白いことがある。ハーンの下男の無意識の顔に真実がこめられていたのと同じだ。島田先生 は上のエピソードでは、身近かな弟子には見せたことのない顔を私に見せたようであり、友人たち はそれを面白がった。
話が少しそれたが、ちょっとしたきっかけで昔のことを思い出し、思い出したエピソードの中で 当時は不可解だった謎が、今の知見によって、解ける。こういうことはコンピューターにも出来る のだろうか,機械に弱い私であるが、少し複雑な英文を翻訳ソフトでやらせると、まったく役立た ずなのを見ると、今のところは、人間の頭脳が上かなと思ってしまう。
最後に、念のために、引用したハックスレーの文の訳を記しておく。「もちろん、習うより慣れ ろであり、訓練によって最初の少しぎこちない飛び方にみがきがかかるのだ」
この訳ならどの先生
も満点をくれること問違いなしだ。 (「研究室だより」二〇〇二年十二月)
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● あとがき Postscript
功成名遂、身退、天之道也 Retire when your work is done, Such is Heaven's
way.
なにもかもぎりぎりまでやらないで、 じぶんのやるべきことが終わったら さっさとリタイアするのがいいんだ。 それが天の道に沿うことなんだ。
(出所:加島祥三.
2000. 『タオ 老子』. 筑摩書房.
pp24-25)
※ I先生、70歳になられてすべての公職を 辞されました。 古来この世に、まあ七十年の過客として暮らす 人間について、Lin
Yutangの"The Importance of
Living"はつぎのように述べています。 阪本勝氏の名訳を並べてみました。
第三章 人間の動物的遺伝 Three Our
Animal
Heritage
われわれは、この地上の永久的居住者ではなくて、しばしの過客である。(3:3, p93) ------;
instead of being permanent tenants upon this earth, we become its transient
guests, ------ (3:3,
p37)
人生の実相をものにたとえれば、美しい夕暮どきに、扁舟(せんしゅう)にさ おさして流れを下る、その舟中一場の夢にすぎない。花に盛衰あり、月に盈虚 (えいきょ)あり、人間のいのちも、また呱々(ここ)の声をあげて人となり、 やがて次に来るものに席をゆずって死んでゆく。こうして同じことをくり返し、 動植物界の永遠の行進に加わるのだ。(3:3,
p94) ―the feeling that life is essentially but a dream, while we row, row
our boat down the river in the sunset of a beautiful afternoon, that
flowers cannot bloom forever, the moon waxes and wanes, and human life itself
joins the eternal procession of the plant and animal worlds in being born,
growing to
maturity and dying to make room for others. (3:3, p40) |
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