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● 真民さんのメッセージ
「あなたと歩いていると もろもろのものが 相寄ってくる」 Whenever I walk
along with you, a crowd of comforts come closer into my
heart.
「美しいひとの美しい心のふれて こころみださず生きてゆきたい」 Keeping in touch
with a beautiful heartstrings of beautiful people, I would like to live
in peace and
quiet.
遠い雲
あなたと歩いていると もろもろのものが 相寄ってくる 山も鳥も 遠い雲までも 近づいてくる 天地一ぱいの 広々とした 豊かな心になってくる
Floating
Clouds Far Away
Whenever I walk along with you, a crowd of
comforts come closer into my heart: mountains, birds, and even
floating clouds far away in the sky. They are approaching me all the way
from so far away into my heart. I feel as if my heart were filled with a
broad and generous mood developing far away out into heaven and
earth [into the
universe].
夕空
わたしはいつもひとりだから あたたかいひとのこころにふれると ほろりとする 生きていることがうれしくなる 暮らしていくことに力がでる
今日あなたに会って帰るさの 夕の空のきれいだったこと 近々虹までたつではないか あゝわたしはもう 野心もなく欲もない ただしずかに生きてゆきたい 美しいひとの美しい心のふれて こころみださず生きてゆきたい
Evening
Sky
Since. I am always alone, I am moved to tears whenever I
touch with warm-hearted people. I can take great pleasure in being
alive, thanks to their warm heart touching me. They give me the energy to
keep on living.
Today I was happy to see you. On my way home I saw
a beautiful glowing in the evening sky. What a beautiful
rainbow, appearing nearby, I kept looking up there! Oh, I no longer
have any ambition and greed. I just want to live a life of peace and
quiet. Keeping in touch with a beautiful heartstrings of beautiful
people, I would like to live in peace and
quiet.
(補足) ・虹 キリスト教では、神の許しの象徴。 仏教では、輪廻のなかで達しうる最高の極地。 (出典:
赤祖父哲二「英語イメージ辞典」)
・ワーズワースの有名な詩 「The Rainbow (虹)」 My heart leaps up
when I behold A rainbow in the sky. So was it when my life began, So is
it now I am a man, So be it when I shall grow old
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「私の心は躍る/見ると です」 「虹を です/大空にかかっている虹を
です」 「幼年のときもそうでした」 「大人になったいまもそうです」 「年を重ねてもそうでありたい」
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● 相田みつをさんのメッセージ
「あったかい座ぶとん のような人」 A person like a warm
cushion
「あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころが やすらぐ」 Your very
presence here lets everyone feel at
ease.
おてんとうさまの ひかりをいっぱい吸った あったかい座ぶとん のような人
A
person like a warm cushion that has absorbed an abundance of heat from the
sun’s
rays.
ただいるだけで
あなたがそこに ただいるだけで その場の空気が あかるくなる
あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころが やすらぐ
そんなあなたに わたしもなりたい
Your
Very Presence
Your very presence here creates the bright atmosphere of
this place; your very presence here lets everyone feel at ease. I also
want to be a person like you.
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● 「初々しさ、純な心」 vs.
「すれっかし、したたかさ」 いくつになっても、 年齢は関係なく、 いつも純情で、 小さな事でも傷つきやすいような そういう心をもちつづけながら、 体験をしていく という風でなければ(なりません)---
@ 鍵山秀三郎先生のご講演からの一節:
--------------------------------------------------- 今までやらなかった人がそんな風にしますと、 あの人このごろ変ったなあと言われるようになるんです。 前はずいぶん粗暴で粗野な印象だったのが、 このごろ変ったと言われるようになると、 その人はどんどん成長していきます。 ところがあいつはいつまでたっても、 変らないなあいい年して……と言われるようでは、 その人はひとつもよくならないですね。 できればこの頃ずいぶん変ったと言われるような 人間になりたいものでございます。 あの人は変った人だという評価に終りたくないものです。 できれば変ったなあというようにありたいものです。
If
you happen to be a person of having done nothing harmonious with others so
far but dare to start anew in such a way as I have told you now, you will
get a good reputation of being called a person who has broken with
convention. You used to give the impression that you were very rude in
manner and crude in talking as well. But you have recently outgrown your
former self. The way people talk about you like this will certainly be a good
proof that you are growing rapidly into a person of character. On the
other hand, there exist those who have never come out of themselves in spite
of their maturity. They should know better at their age. I hope you will
be called a person who has recently outgrown his or her former self
significantly. Don't end your days in the low evaluation most people set
on you as a queer fellow. Instead, you should be called a person who has
transformed himself into an eye-catching
fellow.
ただここで気をつけなくてはいけないことはですね。 世の中で実践だけで築いて来た人は、したたかな人間に なってしまうものです。自分の歩いて来た、 修羅場をくぐって来た、自分のけわしい体験を通して、 つよくはなったけれども、したたかな人間になるというひとは、 世の中に多うございます。これでは体験は一つも生きてないのです。 したたかな人間というのは、人間としては、わたくしは もう最低の人間だと思います。
There
is one thing you have to be careful about. Those who have lived in accordance
with the one and only standard, "Action is prior to all other
concerns," tend to become shrewd rascals. It is all right for them to have
become strong, energetic, and active in mind or body after having managed to
get on with the world through their bitter experience and terrible
shambles, but I observe a good number of really shrewd rascals. They are
like wily old foxes. They cannot employ their experience wisely. These shrewd
scoundrels are, I think, merely the scum of the
earth.
いくつになっても、年齢は関係なく、いつも純情で、 小さな事でも傷つきやすいようなそういう心をもちつづけながら、 体験をしていくという風でなければと思います。 オレはこんな体験をして来たんだから、 少々のことは驚かないぞと勲章をさげて歩いているような 人間になったんでは、その体験は、全く無意味でございます。
However
old you may be, you should always be pure in heart and sensitive about even
mere small matters, irrespective of age, during the time when you
make your way of learning from experience. Don't make your way of wearing
a "decoration" as if it said that you have become so impudent that you are
in defiance of social or moral proprieties without regard for the rights or
feelings of others. Oh, yes, such experience is sheer
nonsense.
出所:『凡事徹底 Do Things Easily and Simply Consistent』
(講述:鍵山秀三郎、筆録:寺田一清、 英訳:坂井孝彦、英文校閲:Frances
Ford) 発行者:野原 剛、発行所:日本アイアール 2007年11月 ---------------------------------------------------
※
A 「いくつになっても、年齢は関係なく、いつも純情で、 小さな事でも傷つきやすいようなそういう心をもちつづけながら、 体験をしていくという風でなければと思います。」
との鍵山秀三郎先生のお話に近い内容を 詩人の茨木のり子氏はつぎのように 吟じておられます。 (この詩はある友人が小心の私に そっとおくってくれたもののなかの一つです)
----------------------------------------------------- 汲む ―Y・Yに―
茨木のり子
大人になるというのは すれっからしになることだと 思い込んでいた少女の頃 立居振舞の美しい 発音の正確な 素敵な女のひとと会いました そのひとは私の背のびを見すかしたように なにげない話に言いました。
初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人と思わなくなったとき 堕落がはじまるのね 堕(お)ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな ぎこちない挨拶 醜く赤くなる 失語症 なめらかでないしぐさ 子供の悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな 年老いても咲きたての薔薇 柔らかく 外にむかってひらかれるのこそ難しい あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナが隠されている きっと------ わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました たちかえり 今もときどきその意味を ひっそり汲むことがあるのです -------------------------------------------------------
※
B 初々しさ・純な心を失った大人を 林語堂は次のように描写しています。 (出所: 英文 Lin
Yutang. The Importance of Living. New York: QUILL WILLIAM
MORROW. 1937.
和文 阪本 勝 訳 『人生をいかに生きるか』 講談社.
1979.)
-------------------------------------------------------- 中年になると、われわれの多感性は、無慈悲な環境のために抹殺され、 窒息せしめられ、冷却され、また萎縮されるときがある。 その理由の多くは、かかる純情の失われないように努力しない われわれの怠慢にあるか、あるいは無慈悲な環境の影響を 避ける力がないゆえである。(5:2,
p170-p171) Somewhere in our adult life, our sentimental nature is
killed, strangled, chilled or atrophied by an unkind surrounding, largely
through our own fault in neglecting to keep it alive, or our failure to keep
clear of such surroundings. (5:2,
p99)
「処世体験」を学んでゆくうちに、外界の多くの力が、 われわれ本来の天性に働きかけ、ために自己を無感覚にし、 技巧的にし、ときには冷酷無情にすることを学ぶ。 それゆえ、処世の体験をおおいに重ねたことをほこるころには、 神経はいっそう鈍感となり、麻痺してしまっている。
(5:2, p171) (※←これが「したたかになる」ということの意味内容 かもしれませんね) In the process of
learning “world experience,” there is many a violence done to our original
nature, when we learn to harden ourselves, to be artificial, and often to
be cold-hearted and cruel, so that as one prides oneself upon gaining more
and more worldly experience, his nerves become more and more insensitive
and benumbed― (5:2,
p99)
政治と商売の世界では特にこれがはなはだしい。 その結果、誰でも彼でも押し退けて自分で先頭につき進む、 かのおそるべき「がむしゃら(ゴー・ゲッター)」者があらわれてくる。 鉄のような意志と強固な決意とはあるが、およそ人間的 な情味はほとんど消え去って、わずかな残滓をとどめている というような人もある。こういう人にかかっては、 情味などというものは、ばかばかしい理想主義とか、 感傷とかに見られてしまう。 私が軽蔑したいのは、かような人々である。(5:2,
p171) ―especially in the world of politics and commerce. As a result, we
get the great “go-getter” pushing himself forward to the top and brushing
everyone aside; we get the man of iron will and strong determination, with
the last embers of sentiment, which he calls foolish idealism or
sentimentality, gradually dying out in his breast. It is that sort of
person who is beneath my contempt. (5:2,
p99-p100)
世のなかには、心の冷たい人があまりにも多い。 もし断種ということを国家の政策として行なうならば、 道徳的に無感覚なもの、美的感覚の腐ったもの、 情感魯鈍(ろどん)のもの、残忍冷酷に出世するもの、 済度しがたき冷血者、あるいは人生の興趣を忘れたあらゆる人間、 そういった人々をまず断種することから始めるべきだ。 生活の激しさのために精神障害者になったものや、 その犠牲になったのよりも、むしろ彼らのほうを先にすべきだ。 (5:2,
p171) The world has too many cold-hearted people. If sterilization of the
unfit should be carried out as a state policy, it should begin with
sterilizing the morally insensible, the cold-heartedly determined and all
those people who have lost the sense of fun in life ―rather than the insane
and victims of tuberculosis. (5:2, P100) (※the unfit, of
tuberculosisは、訳除されています。 the cold-heartedly
determinedは訳補されて 「美的感覚の腐ったもの、情感魯鈍(ろどん)のもの、 残忍冷酷に出世するもの、済度しがたき冷血者」となっています。 「生活の激しさのために精神障害者」は、 the
insaneの訳語であると思われます ―行間に隠れた著者の意図を加味した訳語であろう、 と思われます。) ------------------------------------------------------
※ C ワーズワスは、子供時代の心をいつまでも もちつづけたいものだ、 としてつぎのような詩をあらわしました。
(出所:櫻庭信之.
『諺と俳句―日英ことばの風物詩』. 研究社. 2002. pp.
100-101.)
--------------------------------------------- My heart
leaps up when I behold A rainbow in the sky; So was it when my life
began; So is it now l am a man; So be it when l shall grow old; Or let
me die! The Child is father of the Man; And l could wish my days to
be Bound each to each by natural
piety.
空に虹を見るとき、 わが心は踊る。 幼いときもそうであった。 大人になった今でもそうである。 年老いてからもそうでありたい。 さもなければ、死なせてほしい。 「子」は「人」の父なのである。 願わくば私の生涯の日日が、 自然への敬虔の念によって互いに結ばれんことを。
この全詩を読むことによって、 わが国のことわざ 「三つ子の魂百まで」 とか、 「雀百まで踊り忘れず」 (幼年時代に身につけた習慣は、年老いてもなおらない)や、 What
is learned in the cradle is carried to the
grave. (幼児に憶えたことは死ぬまで忘れない、 子供の性格をみればどんな大人になるかがわかる) という一般的解釈とはかなりのずれがあることがわかる。
ワーズワスの詩の中には、幼年時代に空の虹に心を 踊らせた自然に対する崇拝の念は、 人間は大人になるにつれて失うものだから、 いつまでもちつづけたいものだ、という 自然のなかに神を認める詩人のせつない 願いがこめられているのである。 ------------------------------------------------
※ The
Child is (the) father of the Man. この詩行は、普通は、諺のひとつに 数えられています。 Martin H.
ManserのPROVERBS (Checkmark Books, 2002, p.33.) は、次のように解説します: A child's
character is an indication of the type of adult he or she
will become―human nature does not change from youth to
maturity.
しかし、 桜庭先生のご説明のほうがわたしには ジンときます。ワーズワスの詩文では fatherは無冠詞ですから、 なにか形容詞のような感覚でとらえる ことができそうです。fatherには「主の祈り」 (Matt.
6:9)の OUR FATHER which art in
heaven (天にまします我らの父)に通じた属性的な感覚が やどっているように感じられます。 子供にはFATHER的なものがそなわっている、 子供こそが天の子だ、という感じになりそうです。 大人になるとそれを喪失してゆくことが多いのですが、 できるだけこれをうしなわないようにしなくては なるまい、というような感覚でワーズワスは この詩行を書き留めたのではないでしょうか。
その後、奥津文夫先生の『日英ことわざ比較文化』 (大修館書店.
2000. pp.
43-45)に、つぎのような 解説を拝見しました。うっすらとではありますが、 「わが意を得たり」と感じました次第です。
----------------------------------------------- 三つ子の魂百まで
このことわざは, ワーズワース(William
Wordsworth,1770-1850)の短詩 「虹を見るときわが心は躍る」 ("My Heart Leaps Up When I
Behold") の中から出たものであるが, この句がことわざとして独立して使われるようになってから, ワーズワースが伝えようとした思想が, 現代ではむしろ見失われつつあるようにも思われる。 この詩の全体は次のとおりである。
My
heart leaps up when I behold A rainbow in the sky: So was it when my
life began; So is it now I am a man; So be it when I shall grow
old, Or let me die! The Child is father of the Man; And I could wish
my days to be Bound each to each by natural
piety.
空の虹を見るとき,わが心は躍る 幼いときもそうであった 大人になった今もそうである 老いてからもそうでありたい そうでなければ死んでしまいたい! 子供は大人の父 願わくば私の日々が 自然に対する敬虔の念によって結ばれんことを!
子供の時は誰でも虹を見ると感動するものであるが, 成長するにつれ 幼児の純粋な心が失われていくのは悲しいことだ。 子供の純粋な心を大人になってからも、 いつまでも持ち続けたいと願っている詩である。 ワーズワースにとっては自然が神であった。 人間は,この世で生を与えられたばかりの幼児の時, 最も自然に, すなわち神に近い。 ところが成長するにつれ 世の荒波にもまれ, 自然から離れていってしまう。 幼児こそ人間の本源の姿であると言っているのである。 この詩の中には, 彼の幼児崇拝の思想がこめられているといえる。
日本ではこのことわざに対して, 必ず「三っ子の魂百まで」を当てている。 ところが,日本の「三つ子の魂百まで」ということわざは, 単に「幼時の性質は年をとっても変わらない」という意味で, しかも幼児の時の悪い習慣などが一生直らない, といった意味内容がこめられている場合が多く、 このワーズワースの句とは、本質的に異なるともいえる。 -----------------------------------------------
※ William
Wordsworthのこの虹の詩、 My Heart Leaps
Up(わが心は躍る)は 1807年の作詩。いまから200年前。
Lin Yutang. The Importance of
Living. の発行は1937年。いまから70年前。 阪本 勝氏 の和訳 『人生をいかに生きるか』 の発行は1979年。
茨木のり子(1926-2006)さんの「汲む」は いつの頃にご発表になった詩文でしょうか。 Y.Yは山本安英さんのことで、初のご対面は 昭和22年とか。おつきあいされはじめた 頃の山本さんは40歳くらいのようです。 この詩もそうすると茨木さん40代のころの 作品でしょうか。 とすればいまからほぼ40年前。
鍵山秀三郎先生(イエローハットの創始者で あられます)の『凡事徹底』のご講演は 1992年。今から15年前。 鍵山先生の「日本を美しくする会」 のご創立が1993年。その掃除哲学と 「日本を美しくする運動」は、いま ひろく日本全国にひろがりました。 『凡事徹底』の英文対訳版の 紙製版の発行が2003年、 インターネット版が2007年。
数字遊びかもしれませんが、 丁度200年前のワーズワスの「わが心は躍る」 にみられる心情は、人間の英知として、 時空を超えて、 丁度70年前の林語堂の「The
Importace of
Living」 に継承され、さらにもしかしましたら (ほぼ)40年前の茨木のり子「汲む」を経由して、 さらに15年前の鍵山秀三郎先生『凡事徹底』 に結実しているのかもしれません。
○
鍵山先生: したたかな人間というのは、人間としては、わたくしは もう最低の人間だと思います------いくつになっても、 年齢は関係なく、いつも純情で、小さな事でも 傷つきやすいようなそういう心をもちつづけながら、 体験をしていくという風でなければ(なりません)--- (拙訳---but
I observe a good number of really shrewd rascals. They are like wily old
foxes. They cannot employ their experience wisely. These shrewd scoundrels
are, I think, merely the scum of the earth. However old you may be, you
should always be pure in heart and sensitive about even mere small
matters, irrespective of age, during the time when you make your way of
learning from experience.)
○ Lin Yutang: Somewhere in our adult life,
our sentimental nature is killed, strangled, chilled or atrophied by an
unkind surrounding, largely through our own fault in neglecting to keep it
alive, or our failure to keep clear of such surroundings. (5:2,
p99) (兵庫県知事も勤められた阪本 勝 氏の和訳: 中年になると、われわれの多感性は、無慈悲な環境のために抹殺され、 窒息せしめられ、冷却され、また萎縮されるときがある。 その理由の多くは、かかる純情の失われないように努力しない われわれの怠慢にあるか、あるいは無慈悲な環境の影響を 避ける力がないゆえである。)
○
山本安英さん−茨木のり子さん: 初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人と思わなくなったとき 堕落がはじまるのね 堕(お)ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
※ 言葉の整理: 初々しい、瑞々しい、純な、多感な、傷つきやすい、清清しい. ⇔ 図々しい、厚かましい、強か(したたか)、がむしゃら、すれっかし.
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● 英語母語話者の潜在意識と冠詞の使い分け方の感覚(その12)
ジェイ・ルービン教授:日本語における「ハ」と「ガ」についてのご考察
ジェイ・ルービン教授のご考察の 詳細につきましては下記の書におつきくださいますよう お願いいたします:
Jay
Rubin: Making Sense of Japanese ― What the Textbooks Don’t Tell You 日本語の秘訣
―「日本語は決して“曖昧”ではない」 (東京−ニューヨーク−ロンドン:講談社インターナショナル、1998)
(以下は上記の書からの抜粋です):
Wa
and Ga
*(30) Our old standby "as for" can help clarify this a bit
further. "As for me, [I] went." The "I" is in brackets here because it is
present in the Japanese sentence only as an unspoken subject. Watashi is
not the subject of ikimashita and is not the subject of the sentence. It
is simply the topic of the upcoming discussion. The wa tells us only that the
following discussion is going to be about watashi as opposed to other
possible people. The subject of the verb ikimashita is not watashi but the
silent pronoun that follows it. In other words, when you used to make up
sentences with double subjects in the first grade, you were trying, in
your childish wisdom, to use wa constructions in English. You could have
mastered wa at the age of seven, but that pigheaded Mrs. Hawkins ruined
everything!
よく登場してきている "as for"
は, 以上のことをもうすこし明確にするの に役立つこともあります。 "As for me, [I] went." ここで "I"
は括弧に入っています。 なぜかといいますと,この "I"
は日本文ではもっぱら 言外の暗黙の主語として存在しているからです。 「私」という表現は,「行きました」 の主語でもないし,文の主語でもないのです。 これは,これから出てくる論考内容の主題にすぎないのです。 「ハ」はたんに次のようなことを伝えているのにすぎないのです: 下流側に後続する論考内容は 「私」についてということになりますよ, 私以外のだれかほかのひとについて,ではありませんよ。
動詞の「行きました」の主語は「私」ではなくて, これに続く暗黙の代名詞なのです。換言すれば, 小学校の一年生で主語が二重になっている文章を よく作り上げてしまっていた頃, 子どもらしい知恵を働かせて英語においても 「ハ」の構文を使おうとしていたのです。 今思えば,七歳にして,「ハ」は自由に駆使できていたのです。 ところが,愚かしいほど強情なMrs.
Hawkins=ホーキンス先生 がなにもかも取り返しのつかないことをされてしまって、 二重主語はだめです、と厳命されていたのですね。
(31)
Take a second and look back at the example of a wa object from
Alfonso, Sono koto wa kyo hajimete kikimashita, "I heard that today for
the first time," or "That matter, well, today for the first time I heard
it."
Notice that the actual object of the verb kikimashita is not the
wa-topic koto but the zero pronoun, which we have to translate as
"it" when we start getting
literal.
ちょっと時間をとって振り返ってみましょう。 Alfonsoの著述からですが、 「ハ」が目的語の指標になる例文をみて下さい: 「そのことは今日始めて聞きました。」 "I
heard that today for the first time," or "That matter, well, today for the
first time I heard
it." 注目していただきたいことは,「聞きました」の 実際の目的語は「ハ」が話題にしている「こと」ではなくて, 暗黙の代名詞です。 意味を字義通りに捉えるときは, この暗黙の代名詞を”it”
と英訳すればいいのです。
*(32) We cannot repeat too often that wa NEVER marks
the subject of a verb. It doesn't mark the object, either. And it certainly
doesn't unpredictably "substitute" for other particles such as ga and o.
All wa ever does is tell you, "I know not about others of this
category we've been talking about, but as for this one..." Wa tells you
nothing about how its topic is going to relate to the upcoming
information: it only tells you that some information is coming up that
will be related somehow to the topic. In fact, the only way that you can tell
whether wa marks an apparent subject or object (or anything else) in a
sentence is in retrospect. But language doesn't work in retrospect.
なんど繰り返して言っても言い過ぎということはないのですが, 「ハ」は断じて動詞に対する主語標識を担っているのでは ないのです。「ハ」は目的語の標識にもなりません。 しかも,「ハ」は,例えば「ガ」や「ヲ」といった ほかの不変化詞(助辞、助詞)に対して 代用語の役目をするなんていう予想外のことをする こともないのです。このことは確かです。 そもそも「ハ」の機能とはつぎのことを伝えることだけなのです: 「以上お話してまいりましたこのカテゴリーについての これ以外の他人様・よそのもののことはいざ知らず, ことこれだけに関して申し上げますならば---」。 「ハ」は、それが表わす「話題」の下流側につづいて 登場してくる情報とどのような関連づけに なってゆくのかについては何も伝えてくれないのです。 いや、実際は,「ハ」が文中で、主語であれ目的語であれ、 あるいはほかの何であれ,そのどれをあらわす 標識になっているのかを、はっきり認識して伝えようとしたら、 それに対応できる唯一の方法は, 文章全体をながめて遡及的に振り返って点検して みることにしかありません。 だが,言語を紡ぐという作業は, 遡及的に機能するものではありません。
*(33)
When a grammarian tells you that wa can mark the subject of a sentence, he
is able to say that only because he has seen the rest of the sentence and
knows how it turned out. But when real, live Japanese people read or
hear a wa topic at the beginning of a sentence, they have absolutely no
idea what's coming. Look at Alfonso's time topic example on the clear
autumn sky, Aki wa sora ga kirei desu. The only reason Alfonso was able to
use this sentence as an illustration of a time topic is because he had
read it to the end and could go back and analyze the relationship of aki
to the statement made about it after the wa. When a Japanese person hears or
sees Aki wa, though, he has no idea what's coming (aside from any hints he
might have picked up from the larger context). It could be daikirai
desu / or ichiban ii kisetsu desu / "Autumn-it's the best season," making
it in both cases an apparent subject (in Japanese, if not in English
translation), not a time expression. It could even be an apparent object
if the sentence went on tanoshiku sugoshita / "The autumn: we passed it
pleasantly" or "(The other seasons aside,) the autumn at least we
passed pleasantly."
「ハ」は文の主語の標識になり得る,
と文法学者が教示してくれる場合, その文法学者がなぜそんなことが言えるのかというと, 文の主語と思われるものの下流側の後の方も 全部あらかじめ観察して見てしまっていて 文の結末を知っているからだ,ということにすぎないのです。 しかし,現実には,生身の日本民族は、文の始まりのところでは、 「ハ」の表わす主題を目にしたり耳にしたりするだけで, その下流側にどんなことが登場してくるのかということを 知っているはずはないのです。 Alfonsoが提示した澄み切った秋の空に関する文章について言えば、 これは時候についての話題ですが、 この例文をご覧ください: 「秋は空がきれいです」。 Alfonsoが時候を話題にしているとして この文を利用できたただひとつの理由は, Alfonsoがこの文章を全部おしまいまで 前もって読んでしまっていたからです。 つまり、文の上流側に遡及して引き返すことができたので, 「秋」という表現と「ハ」の下流側に登場する表現との 関連を分析することができたからでしょう。 でも,日本人が「秋は」と耳にしたり目にしたりする場合には, その日本人にはその下流側にどんなことが 登場してくるのかは見当もつかないはずです (ただし,もっと広範囲の背景や前後関係などから 当人が類推するかもしれないような手がかりのようなものは、 それがどんなものであれ、このことは除外して考えてください)。 下流側に登場する表現は 「大嫌い(な季節)です」 "Autumn-I
hate it!" かもしれません。 あるいは, 「一番いい季節です」 "Autumn-it's the best
season." かもしれません。 この二つの場合では,この下流側の表現は, 明らかに主語を表現する指標であって (英訳ではそうでなくとも日本語ではそうなります), 時を表現する指標ではないのです。 さらに言えば明白に目的語を表現する指標にもなる 場合もあります: 文の後続部分が「楽しく過ごした」 "The
autumn: we passed it pleasantly" or "(The other seasons aside,) the
autumn at least we passed
pleasantly." であれば目的語を表現する指標になるわけです。
*(34) Whatever its various
apparent functions, marking subjects or objects or time expressions or
locations, these functions can be labeled only after the fact, as the result
of analysis. Again, the trouble with wa is that it always performs its
double function: it distinguishes known topics from other topics, and it
signals you to look for the important information that is about to be
imparted in the upcoming discussion. When it does that, it puts no
grammatical restrictions on what those discussions can
be.
「ハ」にははっきりと識別できるいろいろな機能があって, 主語の標識になることもあれば目的語の標識になる こともあれば,また,時に関する表現,場所に関する 表現の標識になることもあるわけですが, それがどのようなものであれ,こうした機能に対する 分類上のラベル付けが可能になる時期は, ことの次第が確かめられたあとのことであって、 そのときにはじめてわかることなのです。 つまり,文全容の分析結果としてはじめてわかる ことなのです。繰り返して言いますと, 「ハ」に関して面倒な点は,これの機能が 二重になっている,ということです。 つまり,「ハ」によって,「ほかでもない,これが話題なのだ」 ということを際立ったかたちで識別できるのです。 「ハ」の合図がきっかけとなって、その下流側に登場して来る 論考内容のなかに、まさにすぐ知らしめられようとされている 重要情報を探し出すことができるのです。 「ハ」がこうした機能を果たすとき,「ハ」は、 論考内容の蓋然性に対して文法的制約をする というようなことは、なんらいたしません。
(35)
If you stop and think about it, "as for" works in the same way. After Patrick
Henry set up his topic with "as for me," he had to mention the "me" again
to make grammatical sense: ". . . give me liberty or give me death." The
subject of the main clause here is an understood "you" or "King
George" or whoever it is that is supposed to give "me" either liberty or
death. And "me" is not even an object: it's what we call an "indirect
object." The direct objects-of "give" are "liberty" and "death." In other
words, "as-for" topics in English are as grammatically flexible as wa topics
in Japanese: "As for the men, we paid them and sent them home." "As for
the time, she arrived around two o'clock." "As for her mother's future, Mary
Wang still wonders what lies ahead." "Madame Bovary, c'est
moi."
ちょっと間をおいてこのことに想いをいたせば, "as for"
も同じように機能することがわかります。 あのパトリック・ヘンリーが "as for
me," 「わたしに関して言えば」という表現で ヘンリー自身の話題を持ち出したらその後で, ヘンリーは再度,"me"
に言及する必要があったのですが、 これは文法的に意味をなすようにするためであったのです: ". . . give me liberty or
give me
death." 「われに自由を与えよ,しからんずんば死を与えよ」。 要になっている節の主語は、ここでは,暗黙の "you",もしくは
"King George" もしくは,まあだれであってもいいのですが、 ともかくも "me"
に自由か死を与えてくれることになる 主体なのです。しかも,"me" は真の目的語にすらにも なっていないのです。"me"
は,いわゆる「間接目的語」です。 "give"の「直接目的語」は「自由」と「死」です。 換言すれば,英語において"as-for"
で表現する話題には, 文法的に言えば,日本語での「ハ」と同じような柔軟性が あるのです。「その男たちについて言えば, 彼らには報酬をはらって彼らを家に送った」 「時間について言えば,その女は二時に着いた」 「あの女性の母親の将来について言えば, Mary
Wang はいまもなおこれから先のことに 危惧を抱いている」 「ボバリー夫人ですって,それはわたしのことです。」
(36)
Notice how, in the English examples, the degree of distinction that "as for"
sets up between the topics it marks and other implied topics is quite
variable. The same is true for wa. Depending on the situation, the amount of
contrast can vary from quite a lot to nearly
none.
注目してほしいことがあるのですが,それは,英 語のほうのいくつかの例文で "as for"
を観察してみると, それがあらわしている話題とそれ以外の暗黙の話題との 間で,この "as for"
が生じさせている差異の度合いに 相当なバラツキがあるという様相がみられる ということがわかります。同じことが「ハ」についても ぴたりと一致して言えるのです。状況にもよるのですが, 対照的にみた差異はきわめて大きな場合から ほとんど無きに等しい場合まで多岐に渡っています。
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● あとがき Postscript
○山本安英さん(1906-1993)から 茨木のり子さん(1926-2006)への 色紙上の文言:
(この色紙は今は夕鶴記念館に 寄贈されているそうです)
「静かにいくものは すこやかに行く 健やかにいくものは とおくに行く」
○自分の感受性くらい (茨木のり子)
ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを 友人のせいにするな しなやかさを失ったのはどちらなのか
(中略)
初心消えかかるのを 暮らしのせいにするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なこといっさいを 時代のせいにするな わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
(出所:2007-11-16.
www.sakamura-lab.org/tachibana/hitachi/ibaragi.html)
○ 吉野弘の詩から
滋賀県にご在住のST先生から 下記のようなおたよりを いただきました。 ありがとうございます。
-------------------------------------- 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
これは私が結婚式に招かれたときによく引用する文句です。 いいことを言っていますね。
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